駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

言語化

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言語化する意識の話。

わたしは、Nagiさんのlyric翻訳ブログ「華氏65度の冬」が大好きでよく覗く。

何の通知がなくても3回/日くらいのペースで覗く。

彼の文章を読んでいると、自分の思考スピードといい感じでシンクロして、あたかも会話しているかのような錯覚に至るのが楽しい。

 

コレってどういうコトなのかなと考えていた。

そんな中こんぱち兄さんのコメントで、わたしが考えているコトを言葉に変換する点について褒めていただいた(と思っている)。

で気がついた。

Nagiさんとの擬似会話感は言語化速度が似ているために生まれた偶然なのでは?って。

そう考えると、色々合点がいくんだよね。

 

本筋と余談の成分比などはわかりやすいかも。

 

その会話(記事)でテーマとして扱っている内容についていいたいコトを順に論理展開するうちに、思いついてしまった分岐、思い出してしまったついでにいっておきたい枝葉、などなどを、さてどう扱うかっていう件ね。

 

現実の会話においてわたしはそういう脱線を大切にしたい反面、実際にそのサブルートに踏み込むコトは実に稀なんだ。

相手への信頼度に影響する、といい換えられるかもしれない。

 

普段気軽に逢えない旧友との会話は、だから脱線が酷いし多いし楽しい。

 

会話っていうのは、単なる事物の報告や共有以上の意味を持つ部分に、ロマンがあると思うんだ。

そういう会話がわたしは好きなんだけど、日常的にはほとんどないし、日常に溢れている会話はできればゼロになると嬉しいなと思っている。

 

そんなコトを考えているわたしはじゃあブログという表現手段ではどんな振る舞いをしているかっていうと、脱線を別の記事として格上げするコトで、欲求の一部を満たしている感じ。

思いついてしまった余談は、直ぐに記事の新規下書きに書き入れる、大抵はタイトルと一行目だけを。

そうして5秒未満の脱線は完了して、本筋に再合流する。

 

わたしの文章はそうした摘出手術と培養の結果であるコトがわりと多い。

 

さてNagiさんの文章を読んでいる時に感じる擬似会話感は何なのかといえば、わたしがついやってしまっている姑息な記事増殖を行わない、「本来わたしが好んでいる会話」の有り様になんだか近い気がするんだな。

勝手にそう思っているだけなんだけどね。

関連ブログ

nagi1995.hatenablog.com