駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

表現

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表現行為の話。

書きたいコトが頭の中でまだまとまっていないのだけど、書きながらまとまるかもしれない、という気持ちで書き始めてみる。

 

表現行為は止められない。

これは「一度でも表現行為の楽しさと苦しさを知ってしまった者は」という制限があるのだけど、表現の機会は何も全てが意図したモノばかりとは限らない。

学校や職場やオンライン上など、人が3人以上集まればとにかく意図せざる出来事の連続だし、そんな意図せざる出来事の中に表現行為を求められるコトはさして珍しくもない、と思うんだよね。

 

多くの場合そうして突然求められる表現行為に対して、いやいや自分はそんな大それたコトできないから遠慮しとくよ無理無理無理マジで、みたいな反応になりがち。

でも一度でも表現行為の楽しさと苦しさを経験した人は、このハードルを簡単に飛び越えるコトができる。

 

わたしにはかつて、表現行為の虜になった時代があった。

何でも自分が創ったり考えたコトを、とにかく発表したがったし、発表を一旦のゴールとして凡ゆる表現行為に手を出した。

無節操とはああいう状態のコトをいうんじゃないか。

 

無責任でもあったかもしれない。

 

ある行為が別の行為を阻害してしまうだとか、二つの行為が同居するコトで生じる矛盾だとか、そういう整合性を一切気にしていなかった。

矛盾さえも「わたしの手」で表現したい、と感じていた。

矛盾さえも愛して欲しいと感じていた。

そうして発生してしまった矛盾にこそ「わたしらしさの純度がもっとも高い表現」が溶け込んでいるかもしれない、と思っていた。

 

わたしの表現行為には、邪な思いがあった。

それはつまり、愛されたいという願望。

わたしは少なくとも「作品」と呼べるような何かを創る時は必ず自分のコトを好きになって欲しくてその気持ちを燃料にしていた、と今は思う。

わたしは自分の為にしか、作品を創ったコトがない、のだと思う。

 

「作品」と雑に書いてしまった。

 

わたしにとって作品とはそういうモノで、誰かの為になるような何かを作っている時というのは「作品」ではなく「機能」を作っているような気がしていた。

機能美という言葉もあるから一見作品のようでもあるのだけど、わたしの意識は少なくとも作品ではない。

 

曲を作曲していた時、歌詞を書いていた時、絵を描いていた時、WEBサイトを作っていた時、動画を作っていた時、ネットラジオを配信していた時、ステージに立っていた時、全てわたしはわたしの為にやっていた。

誰かに愛されたくてやっていた。

 

しかしわたしは、それらの行為を全てある時に捨ててしまった。

それまで気がついていなかったけど、それらの行為が、自分に対する愛情への渇望だったと知ったからだ。

その時からわたしは表現行為をやめた、というかできなくてなったんだね。

自己愛の表出が、自分の表現行為の真なる姿だと気がついてしまったのが、ショックだったんだろうな。

 

それから「仕事」として「機能」を狂ったように作りまくった。

毎日4時間だけ眠って機能を作り続ける生活を8年程続けたら身体が遂に破損したが、身体が壊れる前、とっくの昔に精神は痩せ細っていたんだろうと、今は思う。

わたしに作品創りは必要だった、のか。

 

今はどう感じているか。

 

自己愛でもいいんじゃないかな、って思う。

表現行為は、できる時にしかできない、ということもこの3年程でよく解った。

やりたくても、いつでもできるものじゃない。

表現できるタイミングは逃してはならないなって思う。

 

わたしは色々の手段を投げ捨てたけど、また最初から、道具から作り直す気持ちでブログを始めた。

 

独りで生きながら、時折発生する幸せな遭遇に感謝して、機能と作品を作っていこうって思っている。

 

独りでできるかどうかが、わたしの闘いだな。