駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

感覚と数字

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数字の話。

わたしは数字が好きではない。

根底にあるのは、算数や数学に対する嫌悪感だと思う。

学校教育における算数や数学がとにかく嫌いだった。

唯一の解が存在するその強固さに、恐怖を感じていたのかもしれない。

 

今はそう思えるんだけど、当時は嫌いで苦しくてとにかく数字から逃げたかった。

わたしはとある市立芸術大学に現役で合格したけど、センター試験・数学Iの点数は16点だった(実話)。

ところが数字は生活の中に深く深く浸透し切っていて、わたしを解放してくれなかった。

物を買えば必ず金額の話題は顔を出すし、何かといえば人は百分率で事象を語りたがるし「数字でなければ物事の本質は語れないのだ」といわんばかりに数字で何もかも表現しようとする。

わたしはいつも不思議だったんだ。

数学が数学として存在するずっと以前から人は健やかに生活してきたはずだのに、どうして数字を使わないと不安になるのかと。

 

わたしは学校教育の中では最後まで、数学において落第同然の結果しか残せなかった。

数字嫌いは条件反射だったと思う。

そんなわたしが今では、アスキーデータの編集や、エクセル上の表計算、マクロを作ったりjavaを書いたり、ソーシャルゲームの運営計画、更には企業の年間事業計画などといった、面倒で手間のかかる数字を扱っている。

 

つまり。

 

学校教育の数学で必ずしも高得点を叩きださなくても、実社会で通用する「数字使い」にはなれるというコトよね。

わたしは自分に数学的センスが欠けているコトを重々知っている、もう痛い程知っている。

しかしそのコトは、さして問題ではなかったというコトなんだ。

少しだけずる賢くて無駄を嫌う性格であれば、会社経営レベルまでなら数字で困るコトはないと知った。

わたしはただ、同じ結果に至るなら可能な限り少ない手数で物事を終わらせたい、と強く感じているだけなの。

 

人はとかく無駄を容認しがちでしょ。

わざわざ思考するくらいなら、無駄だとわかっている作業や手間を惜しまず、自分の時間を犠牲にしてやり過ごす方が楽だと思ってるんでしょ。 

 

馬鹿も休み休みにして欲しい、とわたしは思う。

 

「自分の時間」以上に価値あるものが、この世にどれ程あると考えているのか。

確かにあるにはある、皆無だとはいわない、もちろん。

しかし「まあいいか」と容易く諦めるコトができるほど軽いものではないといいたいし、自分の時間を大事にできない人を、わたしは信頼できない。

 

自分の時間を大切にしたいと強く思うコトで、結果的に数字なんてたいしたコトない、と思えたわたしがいうのだから、たぶん合ってるんだろうな、と思わない?