おたくって言葉が市民権を得て随分経つ。
おたくは人によって定義が違うけど以前は今よりほんの少しだけ明確な定義があった。
中森明夫氏界隈の人々により命名されたスラングでこれはまあ有名な話なので聞いたコトもあるでしょ。
インターネットなどが一切ない時代、局所的なマニアが数少ない手段を駆使して同門の士が集まるイベントや集いの場に参加した際、赤の他人に対する微妙な距離感から相手のコトを「おたく」と呼び「おたくら、これ知ってる?」的な会話をしていた。
同門の士ではあるが互いによくは知らない者同士、という距離感は今や当たり前で日常に溢れている。
でも当時はそうではなかったんだ。
おたく同士の間には発生しやすい距離感覚だったものの、一般的にはあまり必要のない感覚だった。
他人とのコミュニケーションを超苦手とする人達が、それでも何とかして情報交換や交渉をする為に超無理して頑張っていた。
携帯電話がない時代さえ想像が難しい世代には想像もできない状況かもしれない。
その頃は今よりも情報そのものに、圧倒的価値が存在していた。
知っているか否か、がまだ最重要だった時代。
わたしなどはこの、おたく達がまだ世間に認知さえされていなかった頃の混沌たる空気を辛うじて経験してしまったものだから、精神性やストイックさの手本として、彼らのような人種に強くシンパシーを感じてしまう。
美学があったんだ。
そして90年代後半にインターネットが爆発的に普及する中で情報の価値は下がった。
急降下だ。
今では情報そのものにお金を払う行為が逆に不思議、みたいな感覚が一般的になってしまったね。
情報は限りなく無料に近づいている。
西野氏の炎上騒ぎを例に出すまでもなく、基本的にあらゆるサービスは基本無料化されつつある。
コレはもう止めようのない時代の流れ。
googleもtwitterもfacebookもyoutubeもlineもskypeもpixivもchatworkもslackもMastodonもポケgo!もモンストもぶつ森キャンプもアレもコレも、そしてはてなも、全部が基本無料。
皆さんはこのコトをどう思ってるのかとても興味がある。
わたしはたまたま、デジタル関連のサービスなんかにも足を突っ込んだ仕事を持っているので、その仕組みやお金の流れを理解できたけど、普通に考えてなんかオカシイって思わないのかな。
思わないのか、今は。
もう誰もが認める「価値ある何か」の入手の為に現金を支払うなんて古いんだ。
おたくがストイックにやりとりしていた情報交換の場の、なんと清しかったコトか。
ググって終わり、みたいな情緒の無い情報収集なんかもはや意味がない。
そこでおたくのアイデンディティがキュレーションの方向に向かったのは納得できる。
「何を知っているか」ではなく「何を選んだか」「何をまとめたか」、そこに価値が発生したのはまあ自然だよね。
でもキュレーション・メディアがいくら先鋭的な選択を実践し提供できたとしても、マスを対象としている時点でそこに美学は無い、と感じてしまうんだよね。
美学なる熟語そのものは、コスト・パフォーマンスや「まとめ」、web2.0、なんていうものから乖離した概念だと思う、もはや死語といえそうだけど。
では、ブログはどうなのか。
わたしが感じるギリギリセーフの手段がブログ、かなあと思うんだ。
ギリギリ美学が存在し得る、という意味で。
メールマガジンも本来的には近いけどユーザ・サイドのリアクションの面で全然弱い。
1人で想いを発酵させる事がおたくだという主張も見た。
が、それをいいだすと、じゃあ厳密な境界線は?とツッコミたくもなってしまう。
今やオンライン上では、独りでいるコトはほぼ不可能になっているしね。
おたくがカジュアル化した、なんて嘆きは「何を今更?」と感じずにはいられない。
定量的な定義が叶わない以上美学として扱うのがいいんじゃないかな、哲学や美学との相性は悪くないでしょきっと。
というワケわけでおたくは「美学」だ、と云う結論。