駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

男前

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わたしは男前が好きだ、何をわざわざと思われたかな。男前という言葉の意味するところは人によって捉え方が見事にバラバラで、真逆をいうコトも珍しくないと思う。わたしはある男前が随分前から好きで、ずっとその気持ちが変わらない。

仏像好きの、わたしがサラです。

仏像の好み

わたしはモノゴコロついた時期から結構仏像が好きな子供だった。きっかけははっきり覚えていないのだけど、記憶に残る限り小学3年生の頃にはすでに好きだった。

ちょうどその年に授業で作った木版画に、仁王像を使ったりしていたのが、今でも残してある。幼い頃は、主に憤怒の形相をした力強い感じの仏像が好きだった。

目尻を吊り上げて眉間に深いしわを刻みつけ、ぐわっと開いた口からは整然と並ぶ歯がずらりと並んでいる。そんな顔のどこがいいのかとよく聞かれたものだったけど、なんだかカッコいいなと思っていたし、頼れる感じが安心感につながって甘えたいような気分に近い感情を持っていた。

やっぱり、力強い仏像は、鎌倉時代のものがいい。

血管表現が発展したのもこの頃らしく、細やかな肉体表現に思わず溜息が漏れる。

そんな感じで筋肉隆々とした仏像が好きなんだけど、リアルな男性の好みとはまったく乖離しているのも不思議な話だ。わたしはとりたててマッチョ好きというわけではない、嫌いでもないけど。

さてわたしは、しかし大人になるにつれて仏像の好みが変わっていった。軍荼利明王蔵王権現などの異形なる仏像から、知性的な顔立ちの仏像に目移りし始めたんだよね。

そのきっかけは今でもよく覚えていて、京都の東寺で立体曼荼羅を観たからだ。ご存知かな、立体曼荼羅。元々曼荼羅図っていうのは平面に描かれた、梵字仏画なんだよね。

中心に大日如来を配置した「全宇宙の縮図」が曼荼羅図。つまり、この世を視覚化した「仏像デッキ」というわけ(←罰当たり解釈)。そのコトは知っていたんだけどわたしは仏画には全然興味がなかった。

帝釈天(たいしゃくてん)

しかし東寺のあるお堂には、この曼荼羅図の配置通りに実際に並べられた、十数体の(いやもっとあったかな)仏像が一堂に会しているんだよね。

これは迫力ある。

大きさは色々だけど、一番小さい像でも等身大くらいだから、圧巻。その立体曼荼羅の中に彼はいた。

帝釈天

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東寺の帝釈天に出会って以来、わたしの仏像観は第2ステージに到達した。大きな動きや激しい感情表現以外にも、深く心に残る表情や所作が仏像にはあって、その巧妙さを楽しむフェイズ。

わたしは帝釈天が今でも大好きで、年に何度かは東寺に出向いて会いにいく。あの思慮深い表情を観ると、自分のくだらない文句が浄化されていくような気さえしてくる。

わたしの大好きな男前の話でした。