駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

継続

f:id:sara_pezzini:20180117155311j:plain

はてなブログをうろうろする時がある。なんとなくプラットフォームのホームから、ピックアップされた記事に飛んで、そこからコメントをしている人だったりブックマークした人の中で興味を引かれた人がいたりするとまた飛んで、というコトを数珠繋ぎに繰り返すような感じで。

はてなサーファーの、わたしがサラです。

はてなダイアリーの残り香

はてなブログというサービスは、古くははてなダイアリーという名前の人サービスだったんだ。ブログという言葉は実は結構新しくて、かつてブログのような役割は個人サイトみたいな形の一部に含まれていた、と記憶している。昔わたしも、はてなダイアリーで日記をつけていた時期があった。

その頃は本当に単なる日記で、読者登録とかはなかったな、確か。今は廃れてしまったトラックバックという仕組みを使って、なんとなく存在しているユーザの意思表示を認識する感じだった。思えばよくもまああんな不親切な仕組みを使っていたものだなって、今は思う。あの頃はブラウザ自体、cssの実装についてかなり未整備の状態だったしね。

レイアウトは主にtableタグを使った無理矢理感溢れるものだった。

はてなサーフィンをしていて時々驚くのは、はてなダイアリー時代から継続してテキストを投下し続けている方々がいるという事実。はてなダイアリーからはてなブログに移行はしているものの、ちゃんと過去ログをインポートしていたりするから、初期のログを読めたりして。わたしはそういう継続性に憧れている。なぜならわたしには到底達成できそうにないと思うからね。

自分でいるコト

行為そのものを続けるコトは別段難しいと思わない、例えばテキストを書くという行為は軽く10年以上続けているし、他にも続けている趣味もいくつかある。でもそういうコトじゃなくてね、なんていうのかな、同じパーソナリティのまま続けるコトがわたしにとっては難しいんだよね。ブログでいえば、わたしが「サラ」として書き続けるコトは、せいぜい3年が限界なんじゃないかな、なんて思う。

飽きちゃうんだよね。

自分でいるコトって飽きない?リアル生活でいえばわたしは、とっくの昔にわたし自身に飽きている。自分の肉体的限界は「嫌という程」思い知っているし、感性の意味でも限界を感じる。理想から遠く乖離した自分の輪郭に飽き飽きしながら生きている、とさえいえるかも知れない。

それでもなんでも、自分の感覚をうっすら馬鹿にして騙し騙し、時には意図的に目を逸らしながら、なんとか乗り切ってリアルを生きている。楽しいと思えるコトを可能な限り最大化して、嫌なコトを圧縮し回避する努力をして、それでもプラスマイナスでいえば「ギリギリでゼロ?」くらいかな。

ブログという空間は、そんな自分に飽き飽きしているわたしにとって、なかなか自由がきいて伸び伸びと過ごすコトができるから、結構気に入っている。ただ同じブログを1年以上続けたコトがないからこの先どんな感じになるのか全然わからない。

今は「ネット上の自分に対する飽き」を感じていないので、可能な限り自分の中から言葉を吐き出そうと思っている。

ネット上での生き死に

書ける時にしか書けないコトっていうのは、確実にあると思うからね。わたしという個人は死ぬまで地続きで、辞めるコトは即ち死ぬコトだけど、オンライン上のわたしは何度でも生まれるコトができるし何度でも死ぬコトができる。そういえば過去にそんなコトを書いたりもしたな。これって「移ろい易き存在」というネガティヴな印象がある反面「思い切って振り抜ける」というポジティヴな側面もあると思う。

はてなで知り合った何人かの友人は、オンライン上の生活を一旦お休みされた。それはそれで、元々インターネット上で発生したコミュニケーションの前提だと感じている。わたしはオカルトに明るい方ではないけれど、運命のようなものの存在をうっすら信じている。

つまり、一度離れたエニシでも必然があれば放っておいてもまた再びつながる、という根拠のない安心。

だから親しい人との別れが「死別」でない限り、またきっといつか会えると思っているし、もし会えないならそういう存在だったってコトだな、と理解している。だからもしいつか、わたしが「サラでいるコト」に飽きてしまってあなたが見える場所から姿を消したとしても悲しまないで。

関連記事