駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

人形の話:序

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人形。ヒトガタっていうとちょっと不気味な印象があるよね。最近だとフィギュアっていういい方のほうがしっくりくるかも知れない。

フィギュアを集めるのが大好きな、わたしがサラです。

ぬいぐるみ回顧録

わたしはモノゴコロついた頃から人形が大好き。幼い頃、といっても中学生なってもまだぬいぐるみが好きだったな。

ただ、可愛げなぬいぐるみだったらなんでもいいというコトでもなくて、なかなか面倒なこだわりというか好みが存在していた。

小学生の頃は、完全にゆきちゃんの時代だった、ああわたしのぬいぐるみの名前ね。白い子ヤギのぬいぐるみで、今思えばまあまあ凝った造りになっていて顔などは結構リアルなものだった。

いわゆるサンリオ的な可愛さのカケラもないぬいぐるみだったけど、毎晩一緒に布団にはいったものだ。元々は白かったゆきちゃんは、ずいぶん黒ずんでいったけど、毎日抱きしめて眠った。

ぬいぐるみ以外にも好きな人形はあって、小学生の頃は手芸にハマった。フェルトで作った着せ替え人形が大好きでよく遊んでいたのを覚えている。

着せ替えといっても、本当に着せるコトができるような洋服を作っていたわけではなくもっと平面的なもので、縫い付けたマジックテープによって着脱できるような感じにしていた。 

この行為にわたしは魅了された。

最初の創作癖

自分で好きな洋服(ぽい平面的なもの)を作れたうえに、それを自由に着せ替えできる万能感が楽しくて、わたしのカスタマイズ癖はこの時期に醸造されたんじゃないかなって思う。

これは母親が小学生のわたしに、自分専用の裁縫箱を与えてくれたコトが大きな要因だったなと、後から自覚したな。

小学生のわたしにとって針仕事は「大人の行為」に見えていたから、背伸びしたい年ごろの欲求をここで満たしていたんだと思う。

楽しみはいくつも内包されている。

まずは自分で真似だけであっても「着せ替える」コトができる洋服をデザインできる楽しみ。

実際にはこんな服着て生活できないと思うようなドレスやコスプレのような扮装を、好きなように作れるなんて、もはや自分は「世界を手に入れた」とさえ思っていた。

そして考えた後は作る楽しみ。

わたしは手先を使った遊びや創作が大好きな子供だったので、裁縫はいつまでも続けていられた。全てが美しく縫えた時の達成感は筆舌し難い。

一針一針、間隔やヌイシロを綺麗に揃えながら作業を進めるのは、小学生のわたしにはそれなりに高度な行為だったのだけど、好きだと何度も繰り返すので当然ながら上達する。 

上達が更なる創作を呼ぶので、ほぼ永久機関のように縫いまくっていた。

そして作った後は遊ぶ楽しみ。

まあコレが最終目的なわけ。ここに到達するまでに散々楽しんだ挙句、まだ最後のお楽しみがあるのだから、なんとも贅沢な遊びだった。

今日はこの服、今日はファッション・ショー、今日は衣替え、今日はコスプレ。

最後は飾る楽しみ。 

わたしは男性ぽい感覚が備わっているようで、整然と陳列したり場面を作って飾るといったコトも大好きだった。

おかあさんごっこなんかは自分自身でやって、人形は最終的に、飾る為に作っていた感がある。当時はスマートフォンなどもないからいちいち写真に撮ったりするコトはできなかったけど、それでも充分だった。

今日はこの飾り方で決まり、と思ったのにまた変えたくなってしまって最初から並べ直す、なんてコトを繰り返していた気がする。

メルヘンの残り香

残念ながらこれらの小学生時代を彩ってくれた人形たちは手元に残っていない。写真だって1枚も残っていない。

もしかしたら本当は存在していなかったんじゃないか?って思うけど、まあそれならそれで記憶の宝石箱にしまい込んでおこうと思う(←メルヘン)。

こんな遊び方をしていたら、死ぬまでずっと楽しめるんじゃないかって思っていたんだけどそうはならなかった。

中学生に入学する頃には、人形に対して別の楽しみ方を覚えていったからだ。

-つづく-