駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

狭間、メルヘンとグロテスクとエロスとの

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メルヘン。グロテスク。エロス。一見無関係に見えるこの、でも実は地下水脈で繋がっている概念。

この概念に夢中になったのは中学生の頃だった、わたしがサラです。

メルヘンの誘い

わたし、最初のこだわりは、メルヘンだったと思う。幼い頃からメルヘンチックなモノや考え方や絵が大好きだった。これはなんというか、誰でも通る王道というやつで、女の子がピンク色のモノに心奪われたりするのは珍しい現象じゃない。わたしも例外なく、そうだった。そしてお決まり通り少女漫画に目覚めて、キラキラと輝く瞳を持つ少女を無数に描きまくった。

わたしはいわゆる「りぼん」派だ。

当時は一条ゆかり先生がまだ少女誌で作品を時々ではあるけれど発表されていた。因みにわたしのど真ん中は、矢沢あい先生柊あおい先生だ。両先生の作品でわたしのメルヘンは醸造され発酵して膨れ上がっていった。

グロテスクの夜明け

そうしてメルヘンにだけ心奪われて成長できれば今よりいくらかは穏やかな人生だった、のかどうかはもはや判らないけど、わたしはそうはならなかった。少女漫画からレディス・コミックに手をだし始めるタイミングに呼応して、「月間漫画ガロ」などのやや薄暗い漫画世界に踏み込んでいく。

最初は、ねこぢる先生の「ねこぢるうどん」がガロへの扉を開いてくれた。きっかけが「かわいい絵のねこ」だったのは、今思えば罠のようなものだった。とはいえ、ねこぢる先生に罠をしかけた意図はきっとなかったとは思うんだけどね。

それからわたしは、諸星大二郎先生つげ義春先生水木しげる先生、果ては丸尾末広先生とまで興味の対象を広げていくコトとなった。わたしとしては、これらの作家先生達への憧憬を乱暴に一括りにして「グロテスクの夜明け」だったと認識している。

グロテスクは言語化がとても難しい。

単純に凄惨な情景や過激な流血を表現しただけのものがグロテスクでは、当然ない。しかし表現の一部であるコトも多い。そこには何かしらの美意識や様式美が混在していて、ともすれば気味の悪い解釈も可能でありながら、やはりソコには美しさの介在する余地が残されていた。

そのうっかり見落としそうな美の隙間に潜り込んで、その存在を拡張し誇張し、表現しているものがグロテスクだ、とか思っちゃうんだな、わたしは。

言葉にすると、なんとなく判ったような判らないような、でもイマイチ掴みどころのない話、なのよ。少なくともわたしは、ある作品群を眺めながら「そういうコトだったのか」と膝と胸を打ってしまった。気づいてしまった、という感じかもしれない。

そして、メルヘンとグロテスクを愛する「痛いヤツ」ができあがっていく。

エロス師匠

この2つの一見背反する要素に魅了されてしまった後、エロスに接近するのは時間の問題だった、と思う。どちらの要素からも等距離にあって、かつ交わらない独立性があった。

エロスの入り口まで導いてくれた恩人は、澁澤龍彦先生に他ならない、あ、もちろん逢ったコトもないけどね。メルヘンもグロテスクもエロスも、全てが既に澁澤先生の手中にすっかりあった。サドもベルメールも悪徳も澁澤先生から知った。

10代から大人への階段を駆け上がる途中、ふいに立ち止まり澁澤文学に傾倒したコトで、後のわたしという存在の輪郭は完成に近づいたんじゃないかな、って今でも思う。いやそれはあまりに厚かましいか、でも、そう感じるんだから仕方ない。

わたしは20代前半に「完成した」と思っている。完成度の程度や質は一旦無視するけど、とにかく完成した。そこからは概ねマイナー・アップ・グレイド程度の変化しか体感していない。わたしを完成させる時に必要だったのは結果的に、メルヘンとグロテスクとエロスだった、というわけ。

最後にヒトコト

メルヘンは愛おしい。グロテスクは狂おしい。エロスはその両方。