駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

そして、駄目人間は今日もね

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こだわりを持つコトは、基本的に良いと思う。

わたしはこだわりを持っている人を見ると無条件でちょっと好きになるし、こだわりを感じない人を見ると無意識にちょっと嫌いになる。

コダワリストの、わたしがサラです。

さて、こだわりは持つべしと思っていながらしかし、そのこだわりをいつでもどこでも野放図に表現したり主張したりすれば良いとは思っていない。

むしろ、自分が持っているこだわりは他人にとって等しく価値あるものとは限らない、いや多くのケースで殆ど無価値だったりするコトを、ちゃんと自覚しなくてはならないなって思っている。

これは他人のこだわりに対しても感じるし、自分のこだわりについては更に強くそう感じる。

わたしがもっているこだわりは、いわば自分勝手なルールだし、自己都合で評価した価値観に基づいているから、どこから見ても「わたし最適」の結果でしかない。

だから、自分のこだわりによって誰かが不快な思いをしたり、誰かの不便を引き起こしたり、まして誰かが不利益を被ったりするようなら、それはわたしにとって不本意だ。

誰とでも仲良くしたいとかできるとか思ってはいないんだよ。

なんというか、慎み?礼儀?気遣い?としてそこは死守したいと思っているんだよね。

 

そういう考え方がベースにあるコトも手伝って、わたしは自分のこだわりを日常生活の中で発信するコトはかなり少ないいやほぼ無い。

こんな好き勝手に書くブログを運営しておいて今更何をいうかと思われるかもしれないけど、日常のわたしはこだわりを主張するコトが稀だ。

映画や音楽の話を、ブログで書くようには他人と話さない。

そもそも映画や音楽の話をする場面が、わたしの日常にない。

そのコトは逆に感情の内圧を高める結果になっていて、ブログを書きたいという欲求の燃料になっているんだと思う。

 

ブログは自由。

 

わたしのブログ運営の第1方針は、好き勝手に書くコト。

もしかしたら誰かの不快や怒りを誘発する可能性があったとしても、わたしは自由に書くと決めてブログを書き始めた。

有益性、信憑性、娯楽性、などなど、ブログ運営における価値あるものとしてみなされる性質のどれにも、わたしは軸足を置かないコトにした。

あるとすれば、わたし自身に対する有益性、信憑性、娯楽性は必達要素と考えているコトくらいか。

 

自己中心的動機の発信基地。

自己の快楽を追求する意思表明。

自分本位の最終防衛ライン。

自己愛の聖域。

 

わたしが手に入れた遊び場は、今のところココチ良い空間であり続けている。

思えば、今ほど考えているコトや好きなものを遠慮なく吐き出すコトが、これまでにあっただろうか。

多分ないんじゃないかな。

この楽しみを一度覚えてしまうと日常生活における同様の欲求が発生しなくなる。

つまり現実では不感症になっていく。

わたしは日常生活で高めた内圧をネット上に吐き出している。

このままこの状態を続けると、わたしはリアル生活でどうなってしまうのか。

まるでマトリックスに繋がれて気持ちいい仮想現実を仮想体験しながら、一歩も動かずに粘液のベットで電力を供給し続けている、人間のようにも思える。

 

わたしはブログを書き続けるコトで、駄目人間として更に一歩、完成型に近づいていってるのかもしれない。

念のため断っておくけど、これは諦めや自傷行為ではないんだよ。

わたしはブログを書いていなかった頃より今のほうが、ずっとずっと楽しい毎日を過ごせているのだから。

我、一介の肉塊なり。

では最後にこの曲を、戸川純で諦念プシガンガ。