駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

胡乱なわたし

f:id:sara_pezzini:20180521134340j:plain

わたしは「誰かに何かを求める」というコトが稀だ。

それは拒否を恐怖しているからだ。

なんとも判りやすい理屈によって、わたしは自分の行動原理を理解している。

欲しがりません勝ったって、わたしがサラです。

仕事の話は、全然違う力学によってわたしは動くので、あくまでプライベートな話題のコトを書こうと思う。

わたしが「欲しい」と感じるのは主に、「自分の力や能力で達成可能な何か」だ。

全てではないけど、ほぼ全てといっていいくらいだと思う。

「誰かの優しさや気遣いによって達成される何か」を望むコトは、必ず恐怖を伴う。

わたしは臆病者なので、この恐怖に立ち向かうくらいなら「望まない生活」を選んでしまうというワケ。

何かを「して欲しい」と望むコトは、いくつかのハードルを飛び越える必要があって、そのどれ一つとして失敗せずに全てをクリアできた場合に、初めて「望んだ何か」が手に入る。

 

例えば恋愛も。

 

わたしが好きになった誰かに対して、わたしのコトを気にかけて欲しい、わたしのコトを気に入って欲しい、そして遂には誰よりも好きになって欲しい、そしてそんな感情を持ちながらわたしに触れて欲しい、とかとか……。

そんな欲求を感じて心が過熱状態になっている時、わたしは底知れぬ深い恐怖をもまた感じている。

 

  • 「この感情を失うコトが怖い」
  • 「この欲求が満たされず独りの夜に震えるのが怖い」
  • 「いつの間にか持ってしまった、贅沢でワガママな未来への道が、もし見つからなかった時の苦しさが怖い」

 

恋愛は多くの場合で終わりがやってきて、まるで別人と話をしているかのような、冷たく悲しい別れを経験する可能性を内包する。

ま、あくまで可能性だけどね、うん、判ってるよ。

 

  • 「あんなに仲が良かった時間は、わたしの独りよがりだったのか」
  • 「あの幸せな瞬間は、わたしの空想が作り上げた幻だったのか」
  • 「そんなコトを考えているのは、わたしだけなのか」

 

わたしは幾度目かの恋愛が終焉を迎えたあと、恋愛感情を忌み嫌うようになった。

ひどく冷静になった、といってもいいかもしれない。

刹那的な繋がりを求めるあまり、いつか心に消えない傷跡を増やすコトになるなんて、わたしにはもう耐えられなくなった。

 

恋愛感情についてはかなり自覚的にコントロールできるコトがわかってきた。

つまり、好きになりかけている自分を見つけたら、人との関わり方を、限りなくゼロ温度にするの。

自分の感情が、まるでプログラミングされた人工的な成果物だという「ごっこ遊び」をするの。

わたしはそうして、心の平穏を獲得する。

人間関係構築への道を断ち切るコトで。

 

友人はそんなわたしの行為に疑問を投げかける。

でも残念ながら、彼らに対する答えなんて存在していない。

わたしが過去に感じた悲しみを、過不足なくそのまま誰にも伝えるコトが、究極的には不可能だからだ。

 

恋愛を例にしたけど、人間関係における全ての関係性についてわたしはそうなの。

ただそこにある、石ころのような存在になりたい、空気のような存在になりたいと、何度かこのブログでも書いてきた。

存在を許されつつも、目に見えず、触れるコトもできず、匂いもなく、音も立てない。

わたしは、その程度で充分だと感じるようになった。

 

さて、インターネットは、そんなわたしにとって、とても相性がいいと思う。

存在を許されつつも、目に見えず、触れるコトもできず、匂いもなく、音も立てない。

正にわたしだ。

いや正確には、ある意味で音を立ててはいる。

他人様のブログ改修を手伝ったり、看板イラストを描いて欲しいとねだったり、わたしという存在しか発せられない情動をテキストに乗せて、インターネット上に投下した結果だ。

 

それでもしかし、わたしという人間の存在が持つ胡乱さは、何も変質していない。

それはあまりに悲しいではないか、と思われただろうか。

確かに悲しい考え方だとはわたしも思う。

決して喜ばしいとか、どちらでもないとか、そんな風には思わない。

確かに悲しい。

でもだからといって、悲しいからといって、恐怖に立ち向かうのに必要な勇気や冒険心が、ただ待っていれば降ってくるワケでもない。

こうして求めない駄目人間は醸造されていくワケなのである。

 

わたしはそれでも、ずいぶんと求めてしまうようになったな、と自己評価する。

それはもちろん、ミチコやナマけものさんに対するイラストのおねだりだったりするし、その他色々。

創作の現場におけるそうしたやりとりには、わたしがつい自分の欲求に素直になってしまう「何か」があるみたいなんだよね。

創るという行為は、端から見るよりも遥かにカロリーを消費する。

結果として目に見る、耳に聴こえる形になったもの以外に、多くの選び取られなかった選択肢が存在していて、それらに対しても同じように誠実な創作の情熱が注がれたというコトを、わたしも知っている。

 

でもだから、「見てみたい」と感じるんだろうと思う。

創作に強く惹かれているんだろうと思う。

 

作品はいわば、製作者の内面吐露であり脳内露出。

わたしは誰かの創作行為についてのみ、恐怖を飛び越えてしまえるのだというコトを、このブログを始めてから気が付いた。

それがイイコトなのかそうではないのかわたしには判らないのだけど、わたしの欲求が誰かの負担とならないコトだけは、留意していようと思う。

独り占めしないようにするから、どうか許されたい。

 

とりとめのない文章だったな。