駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

ぼんやり生きる

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日々の生活の中でわたしは数々の苛立ちを経験する。

経験するけど、その度に一々自分の意識をその苛立ちにフォーカスしているかというとさにあらず、むしろある程度ぼんやり過ごすコトで認識の解像度を低めにチューニングしている。

ボンヤリ・ライフ・ハッカーの、わたしがサラです。

ぼんやり過ごすのは、随分と以前から続けているコトなんだ。

特に自分独りだけで過ごす環境下にない時は、ほぼ一日中ぼんやりしているといって間違いない。

何故ぼんやりしていたいのかといえばそれは、もちろんリアル生活における「他者」の存在があるからで、他者の発言や思考が必ずしもわたしの好みにフィットするとは限らないからだ。

社会生活を送る上で避けて通れないのが他人とのコミュニケーションで、コミュニケーションの精度を求めるような生活を、かつてはわたしも目指していた。

ただそれを達成するには、前提が色々あり過ぎて、わたしの裁量範囲内では概ね不可能だなってコトに気がついた。

曖昧さの意義に気がついた、っていう考え方の方がポジティブかもしれない。

よほどわたしの生活を脅かす恐れのない案件については、わたしの意図や好みに反する発言や思考を、見過ごすコトにしたわけ。

 

この、見過ごすコトについて最初の頃は何かモヤモヤとした違和感を感じていた。

それはつまり、敗北感や劣等感、或いは責任の放棄感、に似たネガティヴな感覚だったように思う。

しかししばらくしてわたしは、結局それらの感覚も「わたしの自尊心」というエゴに過ぎないと感じるようになる。

つまらないエゴイズムに囚われて、最終的に必要のない、或いは結果にほぼ影響しないような「因果関係の是正」に躍起になるのは、馬鹿馬鹿しいと思うようになった。

プロセスにこだわる生き方も確かにあろう。

プロセスに価値がないとは思わないし、そんな生き方にわたしは今でも憧れを持っている。

 

しかし、わたしには無理だった。

 

わたしの能力では、結論に影響しない程度の因果関係にまで正確さを求めるコトができない、と思い知ったわけだ。

そう感じてからは、そもそも結論にしか意識がフォーカスしなくなっていったので、かなり曖昧な状態が続く場合でも、それが結論を左右すると思われるような話題でない限りは特に気にせずやり過ごせるようになった。

 

「あ、これ誤解されてるぽいな、でも誤解されたままでも特に困らないし、まいっか」

 

同じ出来事を「苛立ちの種」と一旦理解したあとでも、意識をぼんやりさせて理解の解像度を下げていく。

これは、わたしにとって成長だったのか退化だったのか、自分ではよくわからない。

ただ、心の平穏を手に入れるコトができたのは間違いない、と思う。

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