駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

ナギさんのレビューを読んで想う

暇な状態が好きではない。

いつも何かのタスクに追われ続けるのが好きだ、という意味ではなくて、迂闊に暇な状態を手に入れてしまうと、ネガティブな思考に陥りがちである自分の性質を、自覚しているってコトなのね。

心のゆとりがない時の方がなんだか安心できる、わたしがサラです。

ハッキリ書いてしまうなら、この6月の上旬に今期のわたしのミッションが達成されたのだ。

期内の数値的業績がほぼ確定し、あとは開発業務を現場担当者が実行していくフェイズに移行した。

わたしの今年の仕事は終わったわけだ。

キメ細やかなメンテナンスをプロジェクトやチームに対して行なっていくコトはもちろん残るけど、気持ち的な部分では大きなゆとりが生まれた。

 

そして、こういう時はわたしにとって要注意なんだ。

 

新しいコトを始めてもいいし継続してきた趣味を発展させてもいい。

久しく逢えていなかった友人を訪ねるのもいい。

普段熱望していたそれらの行為は、正に実行可能となった途端に優先順位が急落し思ってもみなかった行動に出てしまうのは、わたしが昔から持っている悪癖だ。

単純に飽きっぽいと理解するのがいいのかもしれないけどさ。

そんな風だから最近のわたしは、客観的に見て不安定な状態にあると感じている。

とはいえ、人は時に心が弱ったりして弱音を吐きたくなるような時もあろうからまあそんな時もあるよね、程度の解釈でもある。

正直にいえば、わたしは数年前に一度心を病んで、それ以前と以後では自分の心の在り様というものに、すっかり自信や確信が持てなくなっている。

そうはいっても、一々その件を誰かに伝えたり宣言して回るコトもしないから、単なる自己の内側で起こっている変化に過ぎないのだけどさ。

しかしそれはわたしにとってそれなりに大きな変化で、他者に対して「実は言い切れていない自分」を隠しているような後ろめたさを、常に持つコトとなった。

そういう流れを経て、わたしがリアル生活におけるコミュニケーションに対してより一層消極的になっていったのは、まあよくありそうな話でしょ。

 

話が逸れた。

 

でそういう性質を持っているわたしは、リアル生活で弱音を吐くコトが下手、というか怖くてできないものだから、無責任にもネットの大海にその片鱗を吐き出している。

このブログが出来上がったのは主にそういう理由からなのね。

リアル生活で「言葉にするのが怖くてできないコト」がたくさんある。

たぶんこのブログでは書いているコトなんだけど、リアル生活では言語化していない。

怖くてできない。

 

結果的に、色々の幸せな出逢いに恵まれたわたしは、ブログを始めた当初に想像というか想定していた立居振舞とは変わってきた。

自分が理解している「自分の願望」は、意外に間違っていたりするものなのだ。

わたしが当初感じていた「ブログを書くコトに望んでいたもの」は、結果的に達成されなかったけど、達成されなかったコト自体はどうでも良かった印象だ。
つまりわたしが期待していたベネフィットは、そもそもわたしの中に存在していなかったのかもしれない。

 

わたしは、「こうしたい」という意図や意思を、人生の最重要項目と設定している。

他者をどうやってでも蹴落としてまで手に入れたいものかどうかは、正直わからない。

たぶん、他者を蹴落とす勇気を持てないという逃げ口上を理由に自分の「こうしたい」を棄てるかもね。

 

ちなみにわたし諍いごとが苦手だ。

 

苦手というのは、気分がひどく落ち込むという意味で、忌み嫌っているわけではない。

というか、人が集まれば諍いごとは発生するものだと思って、諦めているんだろうな。

あって当たり前、くらいに感じている。

そして誰かと誰かの諍いごとを調停したり丸くおさめるコトが望まれるタイミングがやってくる。

わたしは「仕事」としてそういった役回りを担当するコトがこれまで少なからずあったし、それは「仕事」だから自分の必達目標として実行できた。

人は多くの場合で自分の考えを伝えたいと感じていて、伝わらないコトに対して強いストレスを感じるものみたい。

わたしがやるコトは概ね、当事者達が相手に望んでいる立ち居振る舞いを理解し、それを自分で代役したり、言葉を整理してから他方に伝えたりするくらいなんだ。

時として当事者どうしが気がついていない願望が見つかる時もあり、えらく感謝されたりもするのだけれど、それは偶然見つかっただけの話で、多くの場面において「自分自身が望んでいるもの」を本人が理解できていないコトは珍しくないと思う。

そうやって他者の諍いごとの調停などを行うわたしが、いざ自分がその当事者となった時にどう感じるかといえば、その状況に至ってしまった自分に苛立ちを覚える。

相手が望んでいる立ち居振る舞いを理解できていない自分に、ひどく劣等感を感じてしまう。
だからわたしは諍いごとが苦手だ。

 

しかしそういう側面があるコトを承知していながら尚、わたしは自分の「こうしたい」の優先を下げたくないと思っている。

そして、下げたくないのに棄てざるを得ない自分の性質に辟易して、ひどく落ち込むのである。

なんとも面倒だな、と自分でも思う。

 

以上のようなコトをわたしは、ナギさんの文章を読んで思い返していた。

  • ①開かれた窓...自分も知っているし他人も知っている「自分」
  • ②隠された窓...自分だけが知っていて他人には分からない「自分」
  • ③気づかない窓...自分では分からないけれど他人は知っている「自分」
  • ④閉ざされた窓...自分にも他人にも分からない「自分」。

「ジョハリの窓」になぞらえていえばわたしは、①や②にコンプレックスを感じていて、その窓を見れば見るほどに落胆するコトになる。

そして③と④に対しては恐怖を感じていると思う。

③と④はわたしの理解のステージに上がった瞬間に、コンプレックスの候補として意識のライトが当たってしまう。

 

とにかく面倒でうんざりするのは、そんなわたしが「こうしたい」という気持ちの落とし所を見つけられていないコト。

わたしは死ぬまでこの気持を抱えているのだろうか。

 

心のゆとりは、やっぱりよくない。

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