駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

平和

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麻雀牌のデザインは素敵だなって思う。

一応ルールは一通り知っていて、でも何年も遊んでないからかなりのタコ・麻雀になるのは必至だけど、アナログ・ゲームが大好きなわたしがサラです。

という書き始めをしておきつつ、アナログ・ゲームのコトを書こうというつもりはない。

「へいわ」についてだ。

 

本来は安寧を想起させる単語なのに、この言葉の周辺はなんだかいつも物騒な気がする。

平和という単語の定義はシンプルに思えてその実、人によって大きく異なっているコトが、その理由なのかもしれない。

幼い頃から呪文のように幾度となく聞いてきた「平和」という言葉が指し示すモノは、結局なんなのだろう。

 

戦争がない状態。

争いごとが一切ない状態。

対象となるのは誰か。

全世界の全人類にとっての話か。

 

わたしは曖昧ながらもなんとなく「そうなる方が良さそう」な印象を持つ平和というヤツに、随分以前から懐疑的だ。

なんとなくながらも「騙されてたまるか」という気分になる。

 

誤解なきように断っておくと、わたしは争いごとがない状態や、戦争がない状態を、望んでいる。

本当にそんな状態になってくれたら良いのにと、これまで何度も想うコトがあった。

かなり小さな規模感ではあったけど、争いごとに苦しめられた期間がそれなりに続いたりもした。

誰もが誰とも争わないでと、熱望した日々を過ごした経験がある。

 

ただ、その時に願っていた状態を「平和」と呼べるのかというと、なんとなく違和感を感じる。

争いごとがなくなりさえすればそれは平和と呼べるのか、という疑問。

争いごとがなくったって、全然心地よくない環境はいくらでもある。

例えば無関心による静寂は平和だろうか。

諦めや恐怖による沈黙は平和と呼んでいいのだろうか。

 

そうではないんじゃないかなって思う。

では、争いごとがなく、更にどんな条件を満たすと平和と呼んでいいのだろうか。

 

不満を漏らす人が1人もいないコトだろうか。

誰かが誰かを憎んでいないコトだろうか。

誰もが幸せだと感じているコトだろうか。

 

理想や理念として掲げるコトに異議を唱える気はないんだけど、わたしは「そんな状態など存在しない」と感じてしまっている。

夢を語るのは希望が生まれる行為かもしれない。

ただわたしは、夢を語る以上は「実現のための具体的なアクションがセット」である必要があるんじゃないかって思う。

 

心地良くて美しくて実現プランが無い夢の世界に、魅力を感じない。

実現性が欲しい。

もちろん実現するか否かは厳密な意味で誰にも判らない。

それは解っている。

だからせめて「ほら、こうやったらなんだか実現しそうじゃない?」と感じられる程度のアイデアは欲しい。

 

しかしルールを作ると、そのルールに収まるコトができる人とそうでない人とが同時に作られる。

ルールに収まる人の中でも、容易く収まるコトができる人と、頑張ってなんとかギリギリ収まるコトができる人とか、色々の違いが生まれる。

ルールに収まるコトができない側でも同様だろう。

 

つまり、環境や思想、習慣が異なる人々に単一のルールを当てはめて調和を求めるのは、そもそも無理があると感じるのだ。

多数決って満場一致じゃないから、必ず我慢する人を生み出す仕組みでしょ。

数的有利は比較的多くの場面で認められている決定方法だ。

わたしも多数決の結果、多数の側にも少数の側にもなったコトがある。

多くの人が集まる中で物事を決めるというのはそういうものだ、と教えられてきた。

 

でも。

本当にそうだろうか。

 

ルールだから仕方なく我慢しているけど、本当は納得していない人を多く抱えているのじゃないだろうか。

わたしとしては、その状態を平和と呼ぶのに違和感を感じる。

 

我慢の上に成り立つ平和。

 

でもじゃあ、平和など未来永劫ありえないのだろうか。

 

人が「自分の気持ちを大事にしたい」と思った時に、誰かのそんな気持ちと利害が背反したとしたら、どうすればいいのか。

例えばある宗教の破壊思想について、私はおいそれと容認できないのだけど、彼らにとっては人生そのものといえるほどの意味を持つ行為だったりもするわけだ。

教義が単なる思想・信仰の方針にとどまらず、社会の有り様さえ定義していたりもするのだから、日本人が感じる宗教観とはまるで違うんだろうし。

結果、彼らが考える世界平和と私が望む世界平和とが、一致するとは思えない。

同じ地域の同じ言語を話す相手同士でさえ、平和の定義で議論になるのだから、遠く海を隔てた向こう側の国々と、理想を分かち合うコトは、途方もなく難しい気がする。

 

いや難しいというか、目指すべきゴールではない気がする。

 

それまで感じてきた心地よい環境や心が安らぐ考え方を、大きく変えなくてはならないような落とし所が必要になるとしたら、誰かがそれを真に望むだろうか。

お互いに大きく変わるコトを前提とした「平和」が決定的にダメだとは思わないけど、実現性に欠けるんじゃないかなって思う。

 

そうやって平和についての具体的なディテールを考えれば考えるほど、わたしは暗澹たる気分を避けられない。

いや、本当はもう慣れてる。

人が本気で争う場面を、不本意ながら幾度も見てきた。

そしてその度に、気遣いや服従によって無理矢理自分で心の落とし所を見つけ、我慢によって結論づける場面もセットで見てきた。

 

もちろん時には、悔恨や相互理解によって、発展的な解決に至るコトだってある、圧倒的に数は少ないけれど。

わたしはそうした解決を望んでいるし、みんなそう思ってもらいたいと感じている。

 

しかし、その思いが実現するだろうと感じるコトは、今ではすっかりなくなった。

そう、以前は思っていた、もしかしたらそうなる未来もあるかもしれないと。

大雑把にいえば、10代はそうだった。

 

実行プランやプロセスを想像できないような、理想や夢といったものに、リアリティを感じるコトができなくなって久しい。

「頑張ればできるかもしれない」程度に思えるだけで充分だから、せめてそれくらいの希望を感じるコトができるといいのにな。

 

わたしは実現しようとしない夢を、夢として認めていない。

結果的に実現するか否かはあまり重要視していない、いや、軽く考えているわけじゃない。

もっとも重要なのは、実現しようとして具体的なアクションを実行し思考し、それまでの状況を自分の意思で変えようとしたか否か、だと思う。

 

わたしは平和の有り様を想像できなくなり、ゴールを設定できない。

そして、だから平和のために自分が何をするべきか想像できない。

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