駄目人間は今日も

鬱病を持っている駄目人間サラが吐瀉する徒然エッセイ

芸術の記憶

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芸術の話。

芸術って単語は、現代でも生きているんだろうか。

いや、生きてはいる確実に。

生きてはいるけど、生きるべき場所は存在しているのだろうか。

芸術大学に通っていた、わたしがサラです。

わたしは物心ついた頃から絵を描くのが何よりも好きだった。

小学生の間はずっと、着彩作品を年間20cmくらいは描いていた。

積んだ時の高さね。

単純計算すると、100枚/cmで想定すると約2,000枚だから平均・毎日6枚くらいだよね。

つまり、起きている間許される限りずっと描いていた。

でまあそれだけ描いてると、それなりには勝手に上手になる。

そして若さ、というか幼さが拍車をかけてどんどんいい気になる。

つまり、自分は絵が上手だと認識するようになる。

そう思いながら更に描き続けると上手くなる自分が楽しくなってきて、上達スピードも加速する。

しかし素人子供の我流なんて、上限は知れたものだ。

描くという行為にはいくつかのプロセスがあるコトや、表現方法にもいくつものバリエーションがあるコトなど、その時のわたしは知る由もなかった。

ただただ描いていたという意味では、最も純粋な気持ちで描きたかった時代だったのかもしれない。

あの頃のようにはもう、死ぬまでわたしは描けないと思う。

 

何かに気分の赴くまま没頭し続けられる環境そのものが既に、今のわたしには遠い。

自分の自由時間がそのままイコール創作の時間だったのは、なんだか幻のようにさえ感じる。

 

テクニックを覚えて効率を考え狙いが生まれてなお、描きたい気持ちを持ち続けられるのがアーティストなんじゃないかなって思う。

わたしにはできなかった、やろうとはしてみたんだけどさ。

絵画、彫刻、音楽、と形を変えながら創作の魂を燃やしていた生活は、もう何年も前に終わりを告げた。

自分なりにしがみついてこだわって足掻いたんだけどね。

しかしわたしは、駄目なものは駄目なのだというコトも知った。

わたしの期待は実現せず敗北感に打ちひしがれ頽れた。

 

心の底から敗北を認めると気分はむしろ晴れ晴れとしたもので、わたしはそれまでの執着をあっさりと全て捨て去った。

今では絵筆の一本も手元に残っていないし、自分の作品も両親が持っているであろう子供の頃の絵しか存在していない気がする。

全て捨てた。

 

その後わたしはデザインの方角に向かったけど、これは芸術の世界とはまるで勝手が違う。

機能美の世界に芸術性が溶け込むコトは確かにありつつも、根源的な意味で別物だと思う。

どちらが上でも下でもなく、ただただ別物。

デザインの世界にももちろん魅力があった。

機能の要求とそこに根差した美しさを掘り起こしていくような、探索の楽しみがあった。

自然界に存在するあらゆる造形は、数学的見地から検証していくほどに、実に論理的で無駄のない数式や基準に従っているコトが判るのだそうだ。 

つまりまるで誰かにデザインされたかのうように感じられるのだとか。

デザインは要求に対する機能美的なリアクションであるとするならば、自然は自然によってデザインされたといえる気がする。

そして面白いコトに、芸術家は自然の営みや在り様を感じて、内発的な表現を追求していく。

「表現」は大きな循環の中で形を変化させながら巡っているのかもしれない。

芸術は今、どこで息づいているんだろうか。

わたしの内部にまだ、芸術の火が残っているとは思えない。

芸術的なナニかの周辺で、羨望のまなざしを投げかけつつだただた好きだといい続けるコトくらいは、できるかもしれない。

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